当事者への徹底的なヒアリングと商品開発を繰り返しサービス化
食物アレルギーは現代において決して珍しいものではなく、日本でも多くの子どもや大人が悩まされている。卵や乳、小麦といった基本的な食材であっても強い症状を引き起こすことがあり、学校生活や外食、旅行など日常の場面で行動が制約されることが少なくない。同級生と同じ食事を楽しめない疎外感や、家族の外食が難しいといった不便さは、当事者やその家族にとって大きな心理的負担となってきた。
こうした課題に応える形で生まれたのが、京セラ株式会社の社内スタートアップ事業として始まった「matoil(マトイル)」である。同社は、誰もが積極的にチャレンジする企業風土を目指し、既存事業に捉われず、社会課題を解決するための新たな価値を世の中へ提供することを目的に、2018年に新規事業アイデアを公募した。800以上の案から選ばれたmatoilは、社内のUI・UXデザイナーが自身の体験をもとに発案し、「顧客起点」で考えることを武器に、食物アレルギーを持つ人やその家族の悩みを徹底的に聞いて、アレルギーに対応した食事を家庭でも外食先でも楽しめる仕組みを構築した。
サービスの核となるのは、料理とデザートをレシピ付きのミールキットとして自宅や旅行先に届ける仕組みである。東京都世田谷区にある「matoil factory」という拠点で商品を製造し、100種以上の惣菜やおやつを単品で数百円からオンラインで買うことができる。また、1食分をカスタマイズして旅行先などに届けてくれる「カスタムオーダー」や、家族全員で楽しめる「フルオーダーメイド」も用意されており、食べ物に制約のある人もない人も一緒に食事を楽しめる体験を提供している。(2025年9月時点で一部サービス休止中)
事業の開発にあたっては、アレルギー当事者やその家族をイベントなどに招き、一人一人の悩みに対応したミールキットを作って改善することから始まったようだ。そのプロセスは時間がかかるものの、「修学旅行で食べられるものがない」「家族の誕生日に一緒のケーキを囲みたい」といった切実な声に対し、個別に開発した商品が他の当事者の悩みにも適用できるようになり、これまでに2000以上の家族に商品を届けてきた。お客様ごとの制約や希望を丁寧に聞き取り、それに寄り添う姿勢がmatoilの核となっている。
こうした実績が広がる中で、配送先は家庭にとどまらず、旅行先や出張先へと拡大していった。旅先でも安心して食事を楽しみたいという要望に応え、宿泊施設などへ直接商品を届ける仕組みを整えたのである。この柔軟な対応は利用者の行動範囲を広げると同時に、外食産業の関係者の関心を集める契機にもなった。
実際、ホテルやレストランにとって食物アレルギーやインバウンドによる特別食への対応は長らく悩ましい課題である。安全を確保するための知識や人材が不足し、専用の食材やレシピを用意するのも手間がかかる。見た目の華やかさを維持するのも難しく、仕入れた食材を使い切れずにロスが出ることもある。そこで、matoilは事業者に対しても、食材の選定や調理、提供方法までをすり合わせながら、アレルギーやグルテンフリーなどに対応した特別食を提供し、BtoB領域へと事業を広げていった。
事業の裏側には、アレルギー対応に長けた専門のシェフやパティシエがおり、味や見た目の完成度にこだわるとともに、NPO法人アレルギーっこパパの会から専門的な助言を受けることで安全性や実用性を高めている。加えて、matoilは大企業の社内事業として始まったことから、「大企業が母体である」という安心感が利用者からの信頼につながっているそうだ。また、事業拡大に必要な製造体制や工場の設計ノウハウが社内に蓄積されていたことも大きな利点であった。事業を成長させる上で、こうしたリソースはスタートアップ企業では得難い強みとなっている。
これまでの取り組みを基盤に、matoilはお弁当デリバリーサービス、ロジスティックサービス企業などとも協業し、サービス拡大に挑戦している。また、将来的には海外展開も視野に入れている。利用者の海外出張や海外旅行にも寄り添えるサービスを目指し、食物アレルギーが原因で「行動を諦めてしまう人」をゼロにすることを目指している。