無人駅のフロントから始まる地域まるごと「ふるさと」宿泊体験
日本の地方鉄道の沿線では、人口減少と過疎化の進行により、鉄道利用者の減少と空き家の増加が同時に進み、地域経済の衰退が深刻な課題になっている。東京の奥多摩町を走るJR青梅沿線も例外ではない。この課題に直面していたJR東日本は、従来の大量輸送を前提とした「鉄道起点」のビジネスから、沿線の個性を引き出して新たな価値を創造する「ヒト起点」への転換を掲げ、新しい「くらしづくり」を模索していた。一方、地域の活性化やビジネス創出を手がける株式会社さとゆめは、奥多摩町にある「名もなき風景」や日常の営みの中に、それらを活用した地域事業創出の可能性を見出していた。
こうした2社が出会って始まった取り組みが、「沿線まるごとホテルプロジェクト」だ。これは、株式会社さとゆめとJR東日本が2021年2月からJR青梅線で行った沿線集落への滞在型観光ツアーの実証実験をきっかけに始動したもので、宿泊プランは2か月で176人分が完売するという高い成果を収めた。この実績を受け、両者は同年12月に共同出資会社「沿線まるごと株式会社」を設立し、青梅駅から奥多摩駅にまたがる沿線集落への観光を本格的に事業化した。
このビジネスモデルの核心は、駅とその周辺の集落を一つのホテルに見立てる分散型のコンセプトにある。具体的には、無人駅をホテルのフロントとして活用し、チェックインや地域の案内を行うことで、鉄道を降りた瞬間からホテル体験が始まる仕組みを構築している。また、沿線に点在する空き家を地域の風土を活かした宿泊施設に改修し、現在は1棟が稼働しており、2026年までに5~8棟へ拡大する計画としている。
さらに、運営や接客には地域住民が関わり、土地の記憶を語り継ぐ「語り部」やガイドとしてゲストをもてなすと同時に、地域の風土や歴史を伝える取り組みも行っている。また、地域で活動する法人や財団による「奥多摩わさびツアー」や「森林浴セラピー」といったツアー体験や、沿線の集落を巡る散策体験などのアクティビティが提供されている。こうした取り組みにより、宿泊だけでなく、食事や地域体験、地元商品の販売も組み合わせることで、地域の中にもお金が回る仕組みをつくっている。
このモデルの中心となる施設が、2025年5月に宿泊棟としてグランドオープンした「Satologue(サトローグ)」だ。JR青梅線の鳩ノ巣駅と古里駅の中間に位置し、著名な建築家である堀部安嗣氏により設計された。客室は杉やさわらなどの木材を使い、白い塗り壁で仕上げた「繭に包まれるような空間」が特徴となっている。ゲストは滞在中に敷地内での薪割りや野菜の収穫、奥多摩の木材を燃料とした本格的な薪サウナ、夜の焚き火や星空観察など、五感で自然を感じる体験を楽しむことができる。食事では、自家農園の野菜や奥多摩ヤマメ、東京都奥多摩町で100年以上前から栽培されている治助芋(じすけいも)といった地元食材に、地域に移住したシェフが新たな価値を吹き込んだ料理が提供される。
こうして沿線まるごとホテルは単なる宿泊施設の運営に留まらず、鉄道インフラと地域経済が支え合う持続可能な関係性の構築を目指している。その取り組みは新たな試みとして評価され、2023年には「第7回ジャパン・ツーリズム・アワード」で最高賞である国土交通大臣賞も受賞している。地域の何気ない風景を「ふるさと」として再定義し、地域資源を活かした観光モデルとして、地方創生の実践例の一つとなっている。