サンゴを愛する探究心が生んだ、海の環境を再現する技術
サンゴ礁は「海の熱帯雨林」と呼ばれるほど多様な生態系を育み、その資産価値は約80兆円にのぼるといわれ、観光や漁業、沿岸防災、医薬品開発など人類の暮らしに幅広く貢献している存在だ。しかし、この貴重な生態系は地球温暖化の影響で今世紀半ばには70~90%が死滅すると予測されている。サンゴの生態は繊細で、自然界では環境変化が激しく、科学的な検証や保全は長らく困難とされてきた。
世界有数の海洋資源国である日本は、国土の約12倍におよぶ広大な領海を持つ。その海には世界で確認されている約800種のサンゴのうち425種が生息し、突出した多様性を誇る。豊かな漁場を形成すると共に、将来的に新産業を生む可能性のある海洋遺伝資源の宝庫でもあり、ブルーエコノミーを支える基盤となっている。だが、この自然資本が失われれば、生物多様性の損失にとどまらず、漁業や観光、研究開発といった産業基盤そのものが揺らぎかねない。豊かな海をどう守り、次世代に引き継ぐかは、日本にとって喫きっ緊きんの課題だ。
この課題に挑むため、2019年に設立されたのが株式会社イノカである。エンジニアの高倉葉太氏と、自宅に巨大なサンゴ水槽を構築していたアクアリストの増田直記氏が出会い、「人類の選択肢を増やし、人も自然も栄える世界をつくる。」というビジョンを掲げて創業した。彼らが開発した「環境移送技術®」は、AIやIoTを活用して水温・光・潮流を精せい緻ちに制御し、水槽内に特定の海洋生態系を再現する独自技術である。この技術によって、従来は沖縄など現地で年に一度しか観察できなかったサンゴの産卵を、東京のオフィスで再現することにも成功した。
「イノカ」の最初の事業は、この技術を活かした海洋教育プログラムだった。ショッピングモールや科学館にサンゴ水槽を設置し、子どもたちが海の生き物を観察しながら環境問題を学ぶ機会を提供した。三井不動産と連携して実施した「よこはまサンゴ礁ラボ2021」では、小学生が自ら観察や対話を通じて海の不思議を探求し、地球環境を自分事として考える体験が生まれた。これらの活動は単なるCSRにとどまらず、施設の集客イベントやスポンサー予算として事業収益をもたらし、創業期の重要な成長ドライバーとなった。
こうしてイノカは、環境移送技術®を研究者向けの実証にとどめず、都市に自然を再現し、人々が直接体験できる仕組みとして社会に広めていった。自然は遠くの海で守るものではなく、都市で触れ、学び、考えることができるものへ。その転換により教育や体験を通じた新しい自然との関わりが生まれ、次のフェーズに進むための基盤が築かれていった。